<壱> 大学入試に於ける「現代文」とは何か?
- 「国語」は本来縦書きですが、レイアウトの都合上、横書きとしました。御了承下さい。
分かるようで、分からない。分からないようで、分かる…(2)筈だ。(3)儘よ「日本語」だ、「母語」だ……。 だけど、得点できない。なぜ?どうして?WHY? 考えても分からない。いい智恵浮かばず。 まあ、いいか、無視しようか?でも、配点大きいしなあ……。K合かYゼミかS台か、はたまたカリスマD先生か? マイクを通しての(4)尤も至極な全方位的(5)御託宣(だと思う)。 でも、よく理解できぬ私。皆は納得してるの? 板書写して、点は取れるの? 私はどうすりゃいいの? ……、分かるようで、分からない。 また、振り出しだ……。(6)嗚呼、鵺なる「現代文」。負の(7)スパイラル。さて、どうするか。先ずは「鵺」の正体を知らなくては——。
※以下、本題に入る。 読みづらく分かりにくい文章かもしれない。知らない言葉があるかもしれない。そもそも「現代文(国語)が苦手で嫌いだから得点アップのヒントになるかもと読み始めたのに、こんなめんどくさい文章なんか読みたくない」と思うかもしれない。しかし、最後まで読み通して欲しい。「理解」することを「意識」して読破して欲しい。たとえ分からない言葉があったとしても、そこで止めずに、先ずは辞書も使わずに「読解」して欲しい。それが「現代文をとらえる」最初のステップとなる。なぜなら、以下の第1章「Ⅰ[はじめに]」は、字数(約4,200字)・内容の難易度ともにセンター試験の「論説文」とほぼ同等だからだ。 得点力を養成するための第一関門と考えて欲しい。
<壱> 大学入試に於ける「現代文」とは何か?
① 当然ながら現在の「日本語」としての側面⇒全科目の礎としての重要性
全科目の全設問は「日本語」で出題される。それを受験生は「日本語」で理解し考察する。そして、「日本語」の「解」を導き出す。その上で、解答欄に「日本語」で記入する(原語作文は除く)。つまり、全ての基本は「日本語」だということだ。何を今更の感はあるが、意外に(8)看過されている。現に、入試全科目での誤答の最多は「設問を正しく理解していない」(要は「日本語」の問題)ことに(9)因る(単純なケアレス等を除く)。従って、「現代文」の学習で「文意」を正確に理解する技術を習得することは、他科目の得点力にも(10)繋がることとなる。
② (11)然しながら「受験科目」の「現代文」としての側面⇒「テクスト」理解の重要性
「受験科目」のひとつとしての「現代文」は、当然その得点力が問題となる。(12)如何にして得点力を構築するか?「現代文」の設問は大別して「知識」((13)語彙・国語常識・文法等)と「読解」だ。前者は要するに覚えればいい(方法論は別として)。 が、後者はどうするのか? ここで、「現代文」は他科目とは違うと思考停止していないだろうか? 「国語力は生来のもの、(14)一朝一夕に力はつかない……」と(15)諦めていないだろうか? 確かに、本来の国語力はそうかもしれない。だが、「受験科目」としての「現代文」の「得点力」は異なる。そもそも「受験科目」としての「現代文」で問われ ているのは、どの参考書にも記されているように「設問に記載されたた文章を、誰もが日常的に用いている現代日本語文法に基づき、正確に内容を把握、理解 し、設問に即してテクスト(本文)から導くのが最も適切だと考えられる事項を解として導き出す(16)リテラシー」ということになる。従って、「設問」→「正答」の間には、誰もが納得できる「テクスト」上の明白な「根拠」とそれに至る確固たる「プロセス」が存するということになるのだ。
③ 「筆者(作者)の意図」と「テクストの理解」の相違
昔から、「現代文」の入試問題をその設問文の筆者(作者)が解いたら「正答」とは別の解を導き出したといった笑い話や、枝葉末節に(17)拘泥した設問は筆者(作者)の意図とは無関係であり本質を見誤るといった批判等が「受験科目」としての「現代文」に対する論調として見られる。それらの是非は措くとして、「受験科目」としての「現代文」は「テクスト論」として捉えるべきだと(18)措定すれば、(19)懊悩することなく「得点力」増強の道を(20)邁進できる筈だ。
では、「テクスト論」とは何か。 簡明(21)且つ(22)直截に記せば「文章を筆者(作者)の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだという考え方」ということになる。文章は一旦書かれれば、作者自身との連関を断たれ、「筆者(作者)の意図」とは無関係である(23)オートノミーな存在(テクスト)となり多様な読まれ方を許すようになる(フランスの(24)ポストモダンの思想家ロラン・バルトはこれを「作者の死」と規定した)。無論、「受験科目」としての「現代文」では「多様な 読まれ方」は許されない。「筆者(作者)の意図」という「主観的意図」を排除すると同時に読者(解答者)の「主観的解釈」をも排するということになる。前 述のように「設問に記載されたたテクスト(本文)の内容を一般的な文法法則に則って理解する」という「客観的解釈」が求められることになる。
④ 「主観的意図」と「客観的解釈」
例えば、論説文。筆者が「AはBである」という論旨を意図し論じた設問文があるとする。序論部に 於いて「AはCである」であると提起し、本論部で「C」に対し批判的論述を展開し、結論部で序論部を否定せぬまま「AはBである」と断じたとする。設問で 「論旨」を問われたなら、「正答」は何か? 「B」なのか「C」なのか、はたまた?(25)勿論、筆者の「主観的意図」は「B」だ。解答者も本論を仔細に読解し「B」だと考察する(「主観的解釈」)。筆者の意図を(26)忖度し、そして本論の論調から「B」が「正答」となるのか。 否だ。「正答」は「BでありCである」ということになる。何故なら、結論部で序論部を明白に否定していない以上、テクスト(本文)の内容を一般的な論理展 開及び文法法則に則って理解した場合、「双括型」論説文となるからだ。これが「客観的解釈」ということになる。
例えば、文学文。登場人物Aが(27)夭折したとの(28)訃報に接し、知人Bが(29)慟哭した直後の場面——Bと生前のAとの情感溢れる逸話が回想で語られた後、BがAの葬儀に臨む。「(30)嗚咽を(31)堪えBは改めて現実に直面した。棺の(32)亡骸に視線を落とし悲嘆に暮れるB。(33)踵を返したBが視線を上げた先には(34)蒼穹……」——。 2か所の網掛部で「Bの心情」を設問にて問われたとする。「明」か「暗」か?むろん、「読者」としてはどのような「主観的解釈」を加えても自由だ。しかし、「解答者」としては「客観的解釈」で解を導かなくてはならない。テクストの(35)コンテクストに 注目する。最初の下線部直前には「視線を落とし」「悲嘆」、次の下線部直前直後には「踵を返し」「視線を上げ」「蒼穹」とある。従って、当然ながら最初は 「暗」、次は「明」が「正答」となる。この場合、作者の「主観的意図」もそうしたコンテクストを記している以上、同様なものとなる。上記は極端な例ではあ るが、常に「テクスト」に則した「客観的解釈」で「解」を導き出すことを意識することが重要なのだ。そこで、「テクスト」に則した思考の「プロセス」と 「根拠」の見出し方が重要となる。まさに、それこそが「解法」ということになる。
⑤「現代文」の「解法」とは何か?
「解法」を習得し応用できれば、「受験科目」としての「現代文」の「得点力」は確実に身につく。以下、「解法」の一例を記す。
(1)論説文
「Nの法則」(本文全体及び各形式段落)「頭括・尾括・双括 ⇒ 大前提法則」「要旨 ⇒ 序論or結論or序論+結論法則」「序論 ⇔ 結論 直結法則」「本論 ⇒ 繰返し法則」「本論 ⇔ 本論法則」「本論換言 ⇒ 前後段落法則」「段落相互関係 ⇒ 冒頭一文法則」「接続詞 ⇒ 段落重要度指標法則」等。
(2)文学文
「根拠 ⇒ 直前直後法則」「台詞 ⇔ ト書き 相互法則」「動作 ⇔ 心情法則」「登場人物把握法則」「情景描写 ⇒ 心情法則」「比喩 ⇒ 心情法則」「場面分け=時 ⇒ 場所 ⇒ 登場人物 ⇒ 内容法則」「前説=最重要法則」「頭 ⇒ 尾 心情変化法則」「随筆⇒事実・考察 峻別法則」「題名=テーマ法則」等。
(3)全共通
「設問原意絶対優位法則」「空欄補充 ⇒ 代入確認法則」「選択肢 ⇒ 末尾根拠二択法則」「二択選択肢 ⇒ 事実誤認消去法則」「二択選択肢 ⇒ よりまし残存法則」「傍線部 ⇒ 一文一部法則」「だが設問 ⇒ 傍線部無視法則」「脱文挿入 ⇒ 指示語・接続詞・内容法則」「指示語・接続詞設問⇒ 正誤判定可能法則」「指示語 ⇒ 直近同段落法則」「二重指示語 ⇒ 置換法則」「冒頭接続詞・指示語 ⇒ 前段落全体法則」等。
(4)記述設問
「本文未読者理解可能法則」「指示語・比喩表現タブー法則」「本文表現使用必須法則」「設問条件 ⇒ 文末表現合致法則」「記述要点 ⇒ 20字法則」「積み上げ法則」「記述要点 ⇒ 文末法則」「字数調整 ⇒ 文末 → 文頭 修飾部追加法則」「字数制限 ⇒ 九割法則」「制限字数 ⇒ 必要内容合致法則」「字数制限なし ⇒ 過不足なし法則」「原則一文の法則(百字未満)」等。
⑥「国語が苦手」なほど「得点力」がアップする?!
人は誕生の瞬間から「母語」を習得していく。日本であれば、通常「日本語」だ。そして、各人各様の「言語環境」の中で生育していく。学齢期になると教科としての「国語」(日本独特の教科だ)を学ぶ。小・中・高と文部省指導要領に即した同じ内容を学習するのだが、何故か努力の(36)如何に拘わらず「国語力」に差がついてくる(他教科は基本的に努力と相関関係があるのだが)。それは主に「言語環境」(特に「語彙環境」)に因ると考えられる。幼児期から(37)培われてきた「語彙力」の差だ。「語彙力」が優っている生徒は「国語」の授業にも即応でき、より早くより的確に理解する。すると当然、学校のテストでも高得点を獲得する(基本的に「正答」は授業内で教示されているのだから)。難易度が上がったとしても、得意君はその「語彙力」で強引に(38)捩じ伏せていく。やがて、彼は「自らの解法」を会得する。修練を重ね「自らの解法」に磨きをかけ確固たる自信を得る。そして、入試問題と(39)対峙する。ここに思わぬ(40)陥穽が潜んでいる。得点できないのだ。それもその筈だ。
我流である「自らの解法」は、必ずしも「テクスト」に則した思考「プロセス」と「根拠」の見出し方という「客観的解釈」に基づいていないからだ。しかも、哀しい(41)哉、「テクスト」に則した新たな「解法」を習得することを得意君の(42)矜恃が是としない。
さて一方、「国語が苦手」な人はどうだろうか? そもそも「苦手」で「嫌い」なのだから、「自らの解法」など編み出す筈もない。そして、苦手君も得意君同様、入試問題に立ち向かう。案の定、得点できない。
ここまでは同じだが、その後、分岐がある。「やっぱりな。もうどうにもなんないな。あきらめよう」とエスケープする苦手A君はそこで万事休す、袋小路だ。片や「だけどな。なんとかなんないかな。やってみるか」とプログレスする苦手B君は開眼成就、御来光だ。彼には何ら定見がないのが(43)物怪の幸い、「解法」を九九の如く (44)遮二無二習得していく。砂に水が(45)滲み入るように吸収し、「解法」を「公式」として素直に活用していく。結果、彼にとっては(46)摩訶不思議、道理では至極当然ながら「得点力」はアップしていく……という次第だ。
以上、「鵺なる現代文」の正体をとらえる一助になったであろうか? 「(47)諾なり」と(48)頷首して頂ければ(49)幸甚の極みだ。
(50)因みに次章以降では、更に具体的な「解法」事例に論及していきたい。
ちらっと「予告篇」。 第2章は「必須!! 己が実力の現状分析」 (①「基本的語彙力(「国語」常識含む)」確認 ②「読解速度(黙読・音読)」確認 ③「解法習得度」確認 ④「基礎的記述力」確認) の予定。
※尚、下線部脚注の「謎」は次章以降にて解明される。乞う御期待(もうバレてるか?)。